Ikegami TECH
2025.08.06
Ikegami TECH vol.46 複数のHD映像を簡単に長距離伝送したい ~HD多重伝送におけるクロック再生技術~

複数のHD映像を簡単に長距離伝送したい ~HD多重伝送におけるクロック再生技術~

ネット動画が当たり前になった時代、映像の伝送なんて普通にできることでは?その通りなのですが、今回は、非圧縮の複数のHD-SDI映像をできる限り低遅延でそのまま簡単に数十km伝送できないかというお話しです。
昨今、放送の世界では、機材の共通化や省力化、効率化の観点からリモートプロダクションによる中継を実施するケースが増えてきています。既に紹介したようにIP伝送には様々なメリットがありますが、用途を限ればもっとシンプルな装置の簡単なセッティングで実現する方法もあります。(IP伝送については、Ikegami TECH Vol.15、Ikegami TECH Vol.16をご参照ください)
私たちは、SMPTE ST 2110が脚光を浴びる以前から、IPを使わず複数のカメラ映像を1本の光ファイバーでシンプルに伝送する技術の開発に取り組んできました。このうち、ハードウェアとしての一番のポイントは、「映像クロック再生」にあります。HD-SDIの映像信号は、映像クロックごとに、絶え間なく続く無限長のデータです。データが無効な期間がありません。これを「そのまま」つまり「1bitたりとも変化させずに」伝送するには、映像データを生成するカメラ側の映像クロックを伝送後に正確に再生する必要があります。わずかでも差があれば、それが時間と共に累積して、遅延やデータの破綻となるからです。また、HD-SDIでは映像クロックの揺らぎであるジッタを規定していますので、これをクリアすることも重要です(図1参照)。
図1 映像クロック再生の必要性をフィルムリールで表した模式図
一般に、クロックを再生する回路と言えば、PLL(Phase Locked Loop)回路です。
PLL回路は、2つのクロック波形の位相を比較し、位相差が最小となるようにフィードバック制御することによって2つの周波数を正確に一致させる回路です(図2参照)。
図2 PLL回路の構成と位相比較器の動作
しかし、データの多重伝送においては、複数の映像クロックを直接伝送するわけにはいかないので、位相を比較するPLL回路は使えません。
では、どうするか、というと、ある基準となる周期で映像クロックの(パルスの)累積個数をカウントし、その数値をデータとして伝送して、基準周期でのクロック数が伝送した数値と一致するように制御することで映像クロックを再生します(図3参照)。動作開始してからの「累積個数」をカウントするところがポイントで、基準周期ごとの個数だと誤差が蓄積し、周波数を正確に一致させることができません。
図3 伝送を伴う映像クロック再生
この方法では、フィードバック制御する頻度は1/基準周期となり、ある程度自由に設定できますが、色々な条件から現実的に数kHzとしています。位相を比較する通常のPLL回路では、制御の頻度がクロックの周波数(例えば148.5MHz)と同じですから、それと比べると桁違いに頻度が下がることになります。その結果、より低い周波数でクロックが揺らぎHD-SDIのタイミングジッタが厳しくなることや、映像クロックが一致するまでのロック時間が長くなることが想像できます。
このような厳しい条件になると、従来回路の踏襲やトライアンドエラーの調整で乗り切ろうとしても、実用的な性能を得ることはまずできません。現代制御理論の最適制御を適用し科学技術計算ソフトを使った計算やシミュレーションを行うなどの厳格な設計があってはじめて実現できます。地道ですが、仕様には現れにくい性能がここにあります。
また、基準周期は伝送の前後で共通でなければいけません。同期ネットワークを前提とすれば、光回線の伝送クロック(実際に光ファイバーに流れるデータ形式でのクロック)から基準周期を作ることでこの問題は解決します。ちなみにIPネットワークでは、通常は非同期ネットワークなので、伝送前後で共通する基準周期を伝送クロックから作ることができず、これを解決するのがPTP(Precision Time Protocol)です。PTPでの制御頻度は8Hzなどのオーダーです。更に桁違いに頻度が下がり、更に低い周波数でうねりを持ち、ロック時間もより長くなります。
映像設備のIP化はソフトウェア的で機能的なメリットを多く持ちますが、とくに現場で使う可搬型装置の映像クロック再生という観点では、ハードウェアの回路性能が無視できないと言えます。PLL回路という古くからあるシンプルな回路が、時代の要求と共に姿を変えてアナログ/デジタルやハードウェア/ソフトウェアの枠を超え活躍しているのは興味深いことです。